【凪の物語 #5】母の役に立たなきゃいけないと思っていた。12歳で愛想笑いを覚えた私の、20年の記録。
2026-04-30
「世界で一番自分を大切にしてくれる人」
そう信じて疑わなかった母こそが、私の人生を最も長く、そして深く縛り付ける存在でした。
12歳の「英才教育」
12歳で始まった、母との二人三脚。
母は離婚後すぐに、パトロンの支援で一等地に小さな料理屋を開業しました。
長いカウンターに、品のあるお座敷。
お嬢様学校に通い、金銭的な不自由はない。
けれど、毎週金曜夜は「洗い場」で過ごしました。
中学生の労働は禁じられているから、名目はあくまで家業の手伝い。
もちろん、バイト代なんてありません。
母に言われるがまま、常連さんに愛想笑いを振りまく日々。
「ジュース飲む?」
そう声をかけられたら、母の所作を真似て、グラスを少し低く下げて乾杯する。
愛想笑いと乾杯…
それが、私の受けた「水商売の英才教育のスタート」でした。
「お父さん」と呼んだ、母の超太客
店での母は、眩しいほどの笑顔と愛嬌を振りまいていました。
和製美人な母。綺麗な着物を身にまとい、指にはキラキラと輝く指輪たち。
特にお金を使ってくれる「太客」への甘い言葉は、まるでシャワーのよう。
客からの「会いたかった」という言葉に、媚びず、でも迷わず「私も」と答える母。ここは日本なのに客とハグをしたり、腕を組んだりする。
子供心に異様さは感じつつも、母が外泊することもなく、男を家に連れ込むこともない。
ただ、不特定多数の男性に愛情を振りまく姿が、そこにはありました。
なかでも、毎日店に顔を出す「超太客」の存在は格別でした。
単身不妊の超太客。平日の夜は母と毎日過ごし、週末は地方へ帰る。
母は彼に毎日「愛してる」と囁き、彼の通院にも接待にも付き添う。
私のことも実の子のように可愛がってくれたその人を、私は「おとうさん」と呼び、心から懐いていました。
誕生日もクリスマスも、「おとうさん」がいつも一緒だった。
欲しいものはなんでも買い与えてくれた。
でも、「この人がいなくなったら、私たちの生活は終わる」
子供ながらにそう悟っていたのも事実です。
友情よりも、母の「正解」
高校生になると、私はホールに出始め、金曜は23時過ぎまで働き、その後美味しいものを母と食べて帰る。
特別美人でもなかったけど、現役女子高生の私は、客たちにチヤホヤされたし、幸い品のないことをする客はいませんでした。
大学生になれば、今度は「顔の可愛い友人」を店に斡旋するよう母に命じられました。
言われるがままに友人を呼び、客と連絡先を交換し、アフターにも行く。
ジュースよりも売上になるから…成人した私はシャンパンを飲むようになっていました。
母の店の売上のためにシャンパンをリクエストする。
私にとっては「母娘の正常なかたち」だったのです。
凪ちゃんを利用してる!
ある日、親友の一人が母に食ってかかりました。
「ママは凪ちゃんを利用してる!もうやめてあげて!」
けれど、母は激昂しました。
「恩知らずな子。凪、あんな子と遊ぶのはやめなさい。」
当時の私には、友人がなぜ怒っているのか理解できませんでした。
だって、お母さんは私を愛している。
利用なんて、するはずがないのに、どうしてそんなこと言うんだろう。
私は親友との間に、静かに距離を置きました。
(20年後、ようやく彼女に「ごめんね」と「ありがとう」を伝えられました。)
娘ではなく「店の女の子」
社会人になっても、搾取は形を変えて続きます。
人前に出るタイプではない私が、売上のためにクラス会の幹事を引き受け、母の店に人を集める。
仕事で知り合った「経費の使える大人たち」を、母のために使い倒す。
極め付けは、ある年上の既婚男性から好意を寄せられた時のことでした。
母に相談した私に返ってきたのは、母親としてのアドバイスではなく、「店の女の子へのアドバイス」でした。
「身体を許したら終わりよ。あなたの価値が下がるから。 でも、『いつかできるかも』という期待は持たせ続けなさい。」
今なら、その言葉の異常さが痛いほどわかります。
でも当時の私は「普通」を知りませんでした。
数日後、彼から告白された私は、母に教わったことを肝に命じて返答します。
「好きだからこそ、奥さんのところに帰る人は許せない。付き合いたいなら別れてきて。」
100点満点の回答。
私はそうやって、自分の心と引き換えに、母の望む「駒」を演じ続けていたのです。