【凪の物語 #3】父を憎むことは、母への愛だと思っていた。10年かけて「憎しみ」を消化させた過程。
2026-04-23
母との共依存生活、その幕開け
幼少期の私を育ててくれた祖母は、叔母の家と行き来していたので、うちにいたのは年の3分の1くらい。
あとは母と二人きりの生活。
母はパトロンの支援を受け、すぐに起業し料理屋を始めました。
表向きは料理屋、実態は水商売。
パトロンは単身赴任中で、母は病院に付き添ったり、彼の会社にも顔を出すほど絶大な信頼を得ていました。
さっきまで一緒にいたはずなのに、毎晩帰宅後におやすみの電話。
聞こえてくる甘い言葉を、美しいものとして私は受け止めていました。
その影響力のおかげで、娘の私もパトロンはもちろん、部下の方々にも可愛がってもらいました。
クリスマスは毎年20人ほどで、5つ星ホテルのレストランで食事会。
欲しいものは何でも買ってもらえる。
昼逃げをして母子家庭になったけれど、私たちの生活に「貧困」はありませんでした。
華やかな暮らしの代償、一人きりの食卓
でも、その代償は大きかった。 私は、いつも独りでした。
母がタクシーで帰宅するのは、いつも終電が終わった後。
飲めば売上になるし、そもそも根っからの酒好き、母は毎晩お酒を飲んで帰ってきました。
私は自分で夕飯の買い出しをし、自分で料理をし、一人で食べる。
母と話すのは平日の朝、眠くて時間がない中での「忘れ物はない?」という確認くらい。
週末に一度、美味しいものを食べに行く時間はありましたが、そこには祖母やパトロンが同席することも多く、母と二人でゆっくり話ができるような空気ではありませんでした。
もっと家にいてほしかった。
一緒にご飯を食べ、他愛もないことで笑い合いたかった。
でも、私のために朝から晩まで働いていると言う母に、そんな願いを口にすることは、当時の私には贅沢すぎる気がしていました。
植え付けられた「父への憎しみ」
母は離婚してからずっと、私に言い聞かせてきました。 「父が、どれだけ最低な男だったか」を。
小言を言う祖母に私が反論しようものなら、祖母が追い打ちをかけます。 「誰に似たんだか。うちの家系に、こんな性格の人はいない。」
祖母には感謝してるし、祖母ことは大好きです。
でも、この言葉は、私が生きていることが望まれていないような、そんな感覚になりました。
いなくなった方がみんな幸せなんじゃないかな…そんな風に思いながら夜の街を行くあてもなくとぼとぼと何時間も歩きました。
父への嫌悪感は、際限なく膨らんでいきました。
気づけば私の心は憎しみでいっぱいになり、実の父に対して「早く死ねばいいのに」と、不幸を願うようになっていたのです。
最低なのは父ではなく、父の死を願い続ける私の方ではないか。
そんな罪悪感を抱えながら、私は母の顔色を伺い続けました。
10年かけて溶けていった、氷のような心
たまに父から「ご飯を食べに行こう」と電話がくると、憎んでいる私は当然、顔も見たくないので濁します。
でも、父が母に直接電話するのを避けるため、母は私に「会いに行きなさい」と言います。
母のために、年に2回。 憎い父と会う時間。
父は口数が少ない人でしたが、私に会うときはいつも嬉しそうでした。
でも私はずっと憎んでいました。
高校生になる頃、あんなに強かった憎しみが、ほんの少しだけ薄れました。 「バチが当たればいい。幸せになる権利はない。でも、生きていてもいい。」 そんな、何様的な考えに変わっていったのです。
年を重ね少しずつズル賢くなった私は、観たいコンサートや演劇をリクエストし、お小遣いをもらうようになりました。
色々買ってもらったはずなのに、買ってもらったものは何も残っていません。
大切にしよう、なんて微塵も思っていませんでした。
けれど大学生になり、少し大人になった私は、母というフィルターを通さず、父と向き合い始めました。
10年。
長い歳月をかけて、少しずつ、少しずつ。
最後の夜、届かなかった約束
大学を卒業してからも、年に数回は会う関係が続いていました。
たまに届く「元気ですか?」という素っ気ない短いメール。
アラサーに差し掛かったある日、父とオペラ『椿姫』を観に行きました。
食事を済ませた帰り道。
歩きながら、私は父に告げました。
「私、婚約したんだよね。母が怒るから、結婚式には呼べないけど…今度紹介するから一緒にご飯食べようよ。」
父は、笑っていました。
でも、その日は永遠に来ませんでした。