【凪の物語 #2】12歳、私は「夜逃げ」の実行役になった。思い出を捨て、感情を殺すと決めた春休み。
2026-04-20
「どっちと一緒にいたい?」
小学校の卒業式を数日後に控えたあの日。
母から切り出されたのは、あまりに唐突な「離婚の計画」でした。
私の目の前で喧嘩をしたことなんて一度もなかった両親。
父はいつもニヤニヤしながら母を見ていたし、母もそれを受け流している。そんな、どこにでもある穏やかな風景だと思っていました。
けれど、現実は違った。
父のギャンブル依存と、膨らみ続ける借金。
「このままでは共倒れになる。家族を守るために別れることにしたの。」
母の言葉に、私は迷わず即答しました。
「お母さんといたい」
父が嫌いだったわけではありません。
でも、その場の空気で悟ってしまったんです。
「母を選ばなければいけない」と。
それが、12歳の私にできる唯一の正解だと、本能が告げていました。
「思い出は置いていきなさい」
春休みのお昼時。
決行の時はやってきました。
母は職場で父を見張り、私が現場で荷物を運ぶ。
2台のハイヤーに積み込むのは、指示された衣類や宝石、そして位牌など。
「思い出の品は置いていきなさい」
母のその一言で、私は6年間の小学校生活をすべて捨てました。
手元に残したのは、わずかな学用品とお気に入りのぬいぐるみだけ。
「パパに見つかったら終わりよ」
父を怖いと思ったことはなかったのに、母から刷り込まれた言葉に洗脳される。
極度の緊張状態の中、心臓の音が鳴り響いていました。
けれど、作業の途中で母から「今すぐ逃げて!」と電話が入ったとき、不思議なほど心は冷めていきました。
泣くことも、焦ることもない。
ただ淡々と、残りの宝石や仏壇を手早く車に積み込み、私は「新居」へと向かったのです。
あの日、私は『子ども』という役割を脱ぎ捨てました。
それ以来、母や祖母に甘えた記憶はありません。
部屋の前に築いた「バリケード」
新居に着いてすぐ、周到だったはずの計画は呆気なく崩れました。
その日の夜には、父に居場所がバレたのです。
「家に入れないように、外で話してくる」 母はファミレスへ向かいました。
私は家の鍵を閉め、チェーンをかけ、自分の部屋に逃げ込みました。
父に殴られたことも、怒鳴られたこともない。
なのに、見つかったら無理矢理連れて行かれる。地獄のような日々が待っている。
そんな根拠のない強烈な恐怖だけが、私を支配していました。
ドラマの真似をして、ドアの前に机やタンスを積み上げました。
12歳の少女が必死に作った、バリケード。
「ここを突破されたら、窓から裸足で逃げるしかない」
本気でそう思っていました。
結局、最後は母に頼み込まれる形で部屋を出ました。
バリケードを崩し、父と対面しました。
父は、私を殴らなかったし、怒鳴ることもしませんでした。
無理やり連れ去ろうともしませんでした。
ただ、そこにいたのは、妻と娘を失おうとしている一人の男でした。
美しい悲劇のヒロインの娘として
あの日から、私の「共依存」の物語が幕を開けました。
悲劇のヒロインとして生きる母を支えるために。
母がこれ以上傷つかないために。
私が生き抜くために。
私は感情を殺し、冷徹で、冷静で、手のかからない「理想の娘」を演じるようになりました。
自分が本当は何を感じ、何を求めているのか。
そんなことは、もうどうでもよくなっていたのです。
あの日、家族みんなで暮らした家に置いてきたのは、ランドセルや思い出だけではありませんでした。
私の「心」そのものだったのかもしれません。
幸せを当たり前に感じられるようになるまで、ここから30年以上の月日が必要になるとは、この時の私はまだ知る由もありませんでした。